(注)初脱ぎの年月日は媒体の発行日に準じています(発売日とは異なります)
01 国舞亜矢
1992年2月3日
「ソナチネ」の好演で知られる通な女優さん
【初脱ぎ媒体】
「AYA KOKUMAI PICTORIAL」1992年2月3日発行 スコラ
1993年の映画「ソナチネ」で脚光を浴びた国舞亜矢。雨に濡れたTシャツをたくし上げる場面で美乳を披露。男だらけの北野映画で唯一の女性キャストとして一服の清涼剤となるだけでなく強烈な存在感を示していた。これは「ソナチネ」の前年にリリースしたファースト写真集からのカット。デビュー作の映画「新・うれしはずかし物語2」(1991年)で脱いでいるので厳密に言えば映画のほうが早かった。本作を発売後、初主演映画「ザ・ブラインドキャット」(1992年10月)が公開。盲目の殺し屋を演じた彼女はヌードシーンはもちろんレ◯プシーンにも果敢に挑んでいた。ボリューム感満点の乳房、厚めの乳輪のバランスが良く、アヒル口の表情の付け方といいコケティッシュな女優だった。
02 北原佐和子
1992年7月10日
花の82年組
ヤンジャン黎明期のイメージガール
【初脱ぎ媒体】
「27ans d´e collage」1992年7月10日発行 ワニブックス
オスカープロモーションが本格的にアイドル戦線に殴り込みをかけた最初の人物として記録されるのが、真鍋ちえみ、三井比佐子の3人でパンジーというグループを組んでいた北原佐和子である。ジャニーズ事務所のたのきんトリオを手本にしたパンジーは1982年に各自が別々に歌手デビュー。北原はミス・ヤングジャンプという冠を武器に「花の82年組」の中で最初はトップを走っていながら次第にフェードアウトし、1985年を最後に歌手を廃業した。こちらはタイトルの通り27歳の時の撮影された初裸身。スレンダーな体は素晴らしいが陥没乳首にはちょっとビックリだった。続く1993年の映画「極道黒社会」では大胆なセックスシーンを熱演し女優として話題を呼ぶことになる
03 小出広美
1992年7月20日
不作の83年組
芸能界から追放されホステスに
【初脱ぎ媒体】
「REMEMBER」1992年7月20日発行 TIS
出身地・名古屋のローカル局でアシスタントとして人気を得た後東京に進出、NHK「レッツゴーヤング」のサンデーズのメンバーを経て1983年に歌手デビュー。4枚のシングルとアルバム、ミニ・アルバムをリリースするがヒット作は出なかった。いわゆる「不作の83年組」の一人。デビュー曲「タブー」を代表とする中森明菜路線の楽曲を見事に歌いこなしていたことからマニアックな人気を誇る。翌1984年には突然のクビ勧告により芸能界を追放。サンプルまで作られ発売間近だったシングル「最近のム・ス・メ」も発売中止になった。“事務所(研音)の先輩である中森明菜にいじめられていた”“寮に男を引っ張り込むほどの素行不良が原因”など憶測が飛んだが真相は未だ薮の中である。その後は水商売の世界に転身、雇われママや自分の店を持ったりと夜の世界で活躍することに。“元アイドル デビュー10年記念ヌード”というキャッチコピーを引っさげて我々の前に再登場するのはこの写真集でのこと。熟れきった肉体を武器にかつてのファンの股間を刺激。忘れ去られそうになるたびセクシーグラビアを発表するどえらい人である。
04 そめやゆきこ(MiLK)
1992年7月24日
アイドル以前はヌードモデルだった
【初脱ぎ媒体】
南理香「週刊ポスト」1992年7月24日号 小学館
1994年にデビューした3人組アイドルMilkのメンバー、そめやゆきこであるが彼女の芸歴は裸の仕事をメインとする南理香という名のモデルからスタートする。初ヌード披露は週刊ポスト誌上の「新・激写」でのこと。このコーナーは巨匠・篠山紀信氏による撮り下しグラビアで、この平成版の激写は無名時代のさとう珠緒がキャスティングされたことでも有名だ。結局「新・激写」に2回登場したそめやはその後、別の写真家によって撮影された初ヌード写真集「危険イ妹」(1992年10月10日発行/TIS)を発売。また同年公開の映画「シーズンオフ」では共演した土家里織と共にスクリーンでも美乳を披露していた。
05 荻野目慶子
1992年9月9日
恋人の自殺バッシングを乗り越えて
【初脱ぎ媒体】
「SURRENDER」1992年9月9日発行 講談社
スキャンダルと無縁の妹・荻野目洋子に対し、姉・荻野目慶子は“魔性のオンナ”と呼ばれる。そのきっかけとなったのは1990年に起こった当時の愛人・河合義隆監督の自殺。自殺の原因が彼女に捨てられたことだったため、それまでの清純派のイメージを根底から覆すことに...。こちらはバッシングを受けて休業状態にあった彼女の再出発となった初ヘアヌード写真集からのカット。その後もストリップショーの演出、深作欣二監督との不倫愛など話題に事欠かないが、こんな体にお目にかかったら男は死ぬまで溺れてしまいそうだ。
06 浦西真理子
1992年9月20日
アニソンを歌った80年代アイドル
【初脱ぎ媒体】
「M. COLOR」1992年9月20日発行 英知出版
もともとは1988年にアニメ「鎧伝サムライトルーパー」のオープニングテーマ「スターダストアイズ」でデビューしたアイドル歌手。その後は「オールナイトフジ」に出演したりするものの、グラビアでの活動がメインとなりこちらの初ヌード写真集と初ヌードビデオ「Skin Shout」(英知出版)を同時期にリリースした。いわゆる英知出版が脱がせたマイナーアイドルの一人。後述する西尾えつ子もこのパターンだった。
07 日置明子
1992年10月2日
数年後に歌手デビューして
高校生だった市川海老蔵と交際
【初脱ぎ媒体】
「an・an」1992年10月2日号 マガジンハウス
米倉涼子、佐藤江梨子、宮沢りえなどと浮き名を流していた市川海老蔵に隠し子がいたことが判明したのは2003年。すっぱ抜いた女性誌によると海老蔵と相手の女性との出会いは1995年頃で、当時は市川新之助と名乗っていた海老蔵はまだ高校生だった。モデルを務めながら歌手としてデビューしたばかりのその女性とは、グループ交際を経てやがて真剣に付き合うようになったという。妊娠が判明したのは2001年だが、彼女は海老蔵の将来を考え身を引く形で未婚の母の道を選んだと女性誌は伝えている。その女性こそ1995年にデビューした日置明子だった。日置と言えば1992年に賛否両論を巻き起こした「an・an」読者ヌード特集号の表紙を飾ったことでも知られている。“何かが変わるかもしれない!こんな機会を待っていました。”(19歳・予備校生)というコメントに共に中面の2頁にも登場。日焼け跡が残るバストも良いが浜辺を駈け抜けるヒップの躍動感が素晴らしい。
08 吉村夏枝(Lip’s)
1992年10月2日
19歳時に芸名を隠して丸裸に
【初脱ぎ媒体】
「an・an」1992年10月2日号
マガジンハウス
1990年に3人組アイドルLip’sのメンバーとしてデビュー。ヒットのないままグループは解散。完全に消えたと思われていた頃、日置明子が表紙を飾った「an・an」読者ヌード特集号に参加。“10代の最後に、最高の思い出ができました。”(19歳・タレント)と一般人に混じり芸名を隠してのチャレンジだった。その後、映画「目を閉じて抱いて」(1996年)でヌードを披露。1998年に吉村なつえと改名しBabble Bunny のメンバーとして再デビューを果たした。
09 村上里佳子
1992年12月20日
公認と非公認
2種類の初脱ぎが
存在する稀な方
【初脱ぎ媒体】
「RIKAKO」
1992年12月20日
発行 竹書房
村上里佳子の初ヌードには公認と非公認が存在する。非公認の初ヌードは講談社が版元だった頃の雑誌「ペントハウス」1987年11月号。この号には当時21歳だった彼女の若々しいヌードが掲載されたのだが、里佳子側が“乳首が写るカットを載せるとは聞いていない”と主張。すると非を認めた講談社側が雑誌を回収、新たに写真を差し替えた商品を再度流通させるという珍事を起こした。実際はヌードではない差し替え版のほうがレア。それはさておき、公式の初ヌードとなるこちらの写真集は泥だらけヌードという呼ぶのが相応しいアバンギャルドな作風。もともと「mcシスター」の人気モデルだった彼女は、1980年にモデル系7人組グループ、シャワーのメンバーとして歌手デビューするなど抜群のプロポーションを誇っていた。それを味わえるような作品でないことがちょっと残念だった。
10 菊池亜美(OHeSO)
1992年12月20日
1991年ミス日本の出場者
【初脱ぎ媒体】
菊地則江「緋色の女」 1992年12月20日発行 竹書房
(写真は「BIG4 Vol.3」1992年11月発行のパブグラビアから)
1991年ミス日本の出場者の菊地則江。元ミス日本を売りに初ヌード写真集をリリースした。彼女のようにグランプリ受賞者ではないがミス日本を名乗るものは当時少なくなかった。1993年に菊池亜美と改名してセクシーグループOHeSOのメンバーとして歌手デビュー。翌1994年には芸名を再び菊地則江に戻し、元OHeSOの肩書きで初ヘアヌード写真集を発売している。