岡田有希子という悲劇
ユッコが語っていたヤッコの死
遠藤康子が天国へ旅立ってから9日後、岡田有希子がサンミュージックの屋上から身を投げた。二人が仕事で一緒になることはなかったが、同じアイドル雑誌に載ることは度々あった。例えば『DELUXE マガジン』1984年12月号で、ユッコ(岡田有希子)のグラビア&日記ページの後に、ヤッコ(遠藤康子)の水着グラビアが続くといった具合だ。
自分が載る雑誌を欠かさずチェックしていたなら当然、有希子が康子の存在を早い段階から気づいていただろうし、オリーブモデル、シスターモデルだった康子のことを知らなかったとは考えにくい。
康子の自殺はワイドショー、スポーツ新聞で取り上げられたし、有希子を管理していたサンミュージックが、この件について有希子本人と話し合っていた可能性は極めて高い。ちなみに康子の事件を最初に扱った週刊誌の発売日は、有希子の死亡日とほぼ重なった。
有希子は康子の事件について、2つのコメントを残したことがわかっている。
1つ目は、有希子が亡くなる3日前、1986年4月5日のもの。
「なにもねえ自殺しなくても...どうしてもその男性と別れたくないんだったら歌をあきらめればいいのに。ほんとうにかわいそうね」
これは有希子が友人に語ったもので、友人の証言によれば格別の反応とは思えず、ごく普通の口調だったという。この日の彼女は、渋谷公会堂でコンサートツアー『Heart Jack』を昼夜2回の公演を行っている。
2つ目は、その翌日、1986年4月6日のもの。
「遠藤さん...亡くなってしまったのねえ...」
有希子は名古屋から東京へ戻る、新幹線の車中でポツリとつぶやいたという。
この日も、コンサートツアーの名古屋公演があった。会場は有希子の実家から歩いてすぐの名古屋市民会館。公演終了後、高校時代の友人たちと会食した彼女は、その後、実家へ立ち寄り、しばし羽を伸ばした。新幹線の出発時間ギリギリまで実家に滞在した彼女は、父親に名古屋駅まで車で送ってもらい、新幹線に乗った。これが家族と最後の別れとなった。
「遠藤さん...亡くなってしまったのねえ...」は、サンミュージックの相澤社長が後に明らかにしたもので、コンサートに同行したスタッフに向けて言った発言だと思われる。
どちらのコメントも興味深い。
岡田有希子は「男関係の精算を迫られた」という康子の報道を、そのままに受け取っていた。彼女の中では〝仕事〟よりも〝恋愛〟のほうに大きな比重が置かれていたことがわかる。
「どうしてもその男性と別れたくないんだったら歌をあきらめればいいのに」と言っていたように、「恋愛を取るか、仕事を取るか」の二者択一を迫られた場合、友人の前で「仕事を捨てる」というスタンスを取った。
また、そうした問題があっても自殺する必要はないとまで語っている。
「遠藤さん...亡くなってしまったのねえ...」の発言の真意は定かではないが、前日の「ほんとうにかわいそうね」と同様、同情心からきたものだろう。久しぶりに友人や家族に会ったことで、生きていることをしみじみと実感したのか。あるいは、故郷に戻ったものの、自分の時間もままならない己の境遇と照らし合わせたのか。
当時、サンミュージックは松田聖子が神田正輝と結婚し、出産で休業していた。2年前には都はるみが引退するなど、実質、岡田有希子と早見優が稼ぎ頭だった。コンサートツアーを無事に終了した彼女だったが、東京に帰ればレコーディング、テレビ、ラジオ、CMにとスケジュールはビッシリ詰まっていた。
康子の訃報を聞いた有希子は「なにもねえ自殺しなくても...」と思いつつ、そこまで恋に一途になれたデビュー前のアイドルにシンパシーを抱いたに違いない。そして、ますます意中の男性への思いを募らせていったのではないか。
新宿と渋谷で映画をハシゴした自殺の前日
名古屋のコンサートを終えた翌日、岡田有希子のスケジュールはオフだった。
1986年4月7日。
有希子は主演ドラマ『禁じられたマリコ』(TBS系/1985年11月5日〜1986年1月28日放映)で共演したタレントの浅見純子と一緒に映画を見にいった。趣味は映画鑑賞で「1回に2〜3本は見る映画狂」を自認する有希子は、まずは新宿で『スターズ/ウイ・アー・ザ・ワールド』を鑑賞。続いて渋谷へ向かった。午後7時から始まる話題作『ロッキー4/炎の友情』を見に行くためだ。
渋谷パンテオンで行われた同映画の試写会に現れた彼女は、淡いチャイナカラーのジャケットに黒のスカート、耳に真珠のイヤリング、手にはルイヴィトンのバックという装い。
その姿は招待客を撮影にきた数社のカメラマンにおさえられている。これらの写真が生前の有希子を写した最後のものとなる。にこやかな表情でカメラにおさまる彼女に死の兆候はまったく感じられない。
試写会が終映したのが午後8時半。その直後、有希子は友人の浅見を離れた場所で待たせて、公衆電話で人目を避けるように10分以上の長電話をしている。
電話をかけた相手は誰だったのか。
相手は『禁じられたマリコ』で共演した俳優の峰岸徹だったのか。
岡田有希子は、遠藤康子とは違って遺書を残していた。遺書は、この試写会からおよそ半日後、最初に自殺未遂を起こした南青山のマンションの部屋に置かれていた。
それは、ピンクの封筒に入れられたピンクの便せん2枚で、正確に言えば封筒には〝遺書〟ではなく、〝書き置き〟と記されてあった。当時、少女たちの間で流行っていた〝まる文字〟(変体少女文字)で、走り書きに近い状態だったという。
便せんには18行にわたって峰岸徹への思いが綴られていた。
「峰岸徹さんにふられてしまった...」とその恋が実らなかったことも告白し、結びには「勝手なことをしてごめんなさい」とあり、自作の詩も添えられていた。
当時の峰岸徹は42歳。有希子との年の差は24、親子ほど離れていた。『禁じられたマリコ』で刑事役として有希子と共演した峰岸は、連続ドラマ初主演の彼女に対して、何かとアドバイスするうちに二人は親密になっていく。
1968年にデビューした峰岸は、ニヒルで都会的な容貌から「赤木圭一郎の再来」といわれ、独特の陰のある雰囲気を持ち、中堅スターとしての地位を着実に築いていた。
また、彼は樋口可南子をはじめ、数々の美人女優と浮名を流すなど共演者キラーとして知られていた。12歳年下の女優の藍とも子と1976年に結婚するが、6年後に離婚。当時の峰岸は、藍との間にもうけた一人娘を引き取り、男手一つで育てていた。
渋いルックス、中年の色気、実生活に裏打ちされた父性...。
「いいなあと思うのは舘ひろしさんとか、結構年が離れた人ですね。オジンくさくなければ、お父さんみたいな人でもいいです」と語るほどの〝中年好き〟だったユッコ。まさに峰岸徹は理想の男性だった。
ドラマの収録が行われた砧撮影所は二人が住む成城のすぐそばにあった。撮影が終わると、有希子は峰岸が運転するベンツに乗って、嬉しそうに一緒に帰っていった。時には二人きりで食事することもあった。この時期の彼女は「毎日がとっても楽しい」と親しい友人に語っていたという。
有希子の下宿先(サンミュージック社長・相澤秀禎の自宅)は成城4丁目、峰岸徹の自宅は成城6丁目であり、距離にして1キロも離れていない。このころ、下宿先を抜け出した彼女が、成城の峰岸宅周辺で夜な夜なデートを重ねていたという目撃情報も寄せられている。
4月4日から南青山で一人暮らしを始めた有希子。成城の峰岸とは家が離れてしまったし、新しいマンションではマネージャー、付き人の目があって、簡単に彼と会えなくなっていた。
スケジュールが完全オフとなった彼女が、試写会の後に「峰岸さんに会いたい」と公衆電話のダイヤルを回したのも不思議でない。あるいは、すでに会う約束をしていたのか。
有希子がマンション自室に戻ったのは午後10時ごろ。
日付が4月8日へと変わり、午前中に自殺未遂を起こすまで、まだ半日の時間がある。
午後10時10分、有希子のもとにはマネージャーから「明日予定されていた2時間ドラマ『家出令嬢の課外授業』(テレビ朝日系)の収録が、局の都合で1日延期となった」という内容の電話が入る。マネージャーの証言では、彼女は普段の様子と変わりなく「引越したばかりの荷物を整理しなきゃ」と明るい調子で話していたという。
4月8日は峰岸徹も仕事がオフだった。有希子がそのことを知っていて、彼と会おうとしたとも言われている。
というのも、遺書(書き置き)には「あこがれていたのに急に冷たくされて悲しい」「電話もかけてくれない」「もう一度お会いしたかった」「待っていたけど、あなたは来なかった」という趣旨の言葉が記されていたからだ。
このことから「明日もオフ」になった有希子が、峰岸と会うために何らかのリアクションを起こしたと見られている。
午後10時10分にマネージャーからの電話を取ったときの彼女は明るかった。
その後、有希子は女優の生田智子と何度か電話でやり取りしている。
現在は〝ゴン中山〟こと中山雅史夫人として知られている彼女。生田は『禁じられたマリコ』の共演者であり、峰岸のことを相談しやすい相手だった。『ロッキー4』の試写会も最初は生田を誘ったが、彼女は学校があったために行けなかったらしい。
生田智子は、生前の岡田有希子と最後に話したタレントとなった。
午後11時過ぎ、有希子が最初に生田にかけた電話は「いつもと変わらない明るい声だった」という。
午後11時半ちょっと前、 今度は生田智子が電話するが、出なかったため留守電に用件を残して切る。
午後11時半には、高校(堀越学園)時代の同級生で、アイドルの石野陽子が電話をかけている。呼び出し音を3、4回鳴らしても出なかったため、石野は〝いないのかなぁ〟と思い切ったという。
午後11時半過ぎ、生田智子に有希子から2回目の電話がかかってくる。
生田が「さっき電話したら留守番電話になってたけど、どこに行ってたの?」と聞くと、すると、有希子は「近くに住んでいる知人のスタイリストのところに遊びに行っていたの」と、ひどく落ち込んだような暗い声で答えたという。
後にマネージャーが確認して判明したことであるが、このスタイリストのもとに有希子が訪れた事実はなかった。
1回目の生田との電話を切った後、有希子にとって絶望のドン底に落とされるような出来事が起こった。だから、生田や石野陽子からの電話に出られなかった。
いったい何があったというのだろう。
2回目の会話で、有希子は生田に電話でこんなことを明かしたとも言われている。
「峰岸さんに電話をかけたら、女の人が出て、『いま、お風呂に入っている』と切られちゃった」
4月7日、午後11時ちょっと前から午後11時半の間に、有希子が峰岸宅に電話をかけると、若い女性が出た。その後、かかってきた友人たちの電話に出なかったのは、彼に女がいることがわかり、ショックのあまり、部屋の中で呆然としていたから...。 あながち突拍子もない説ではないだろう。
岡田有希子は峰岸徹に〝半同棲状態〟の婚約者がいること知らなかったようだ。
この婚約者は26歳の元OLだった。峰岸の8歳の娘も彼女になついていた。
「子供の母親になってくれる女性が欲しいんだ」と周囲に漏らしていた峰岸は、4月末に彼女と入籍して内輪だけのパーティーを開く予定だった。
峰岸の電話に出たのはその婚約者。
にべもなく電話を切られてしまった。
彼からの折り返しの電話もない。
有希子の遺書(書き置き)にはこんなことも書かれていたという。
「峰岸さんは会ってくれない。好きか嫌いかはっきりしない。思わせぶりで冷たい人。でも私は好きなの。捨てないで。捨てないで...」
兄と妹のような関係
4月8日、峰岸徹は岡田有希子が亡くなった日の夜おそく、100人近い報道陣に囲まれ、取材に応じている。
記者 岡田有希子さんが亡くなって今のお気持ちは?
峰岸 正直、ものすごくショックです 。
記者 どんなお付き合いだったんですか?
峰岸 昨年からドラマで共演し、仕事でいろいろかわいがっていて、僕だけでなく、みんなにかわ いがられていました。ドラマの中で、グループみたいにみんな仲が良かった。まあ、兄貴というか...。
記者 「峰岸さんにふられた」と遺書に名前があったことについては?
峰岸 そう言われても...。お昼を一緒に食べたり、帰りが同じ成城なので送って帰ったりしたぐらいで...。
記者 死の直前、電話があったと言われていますが。
峰岸 聞いてませんし、彼女のマンションに行ってません。
記者 最後に会ったのはいつごろ?
峰岸 最後に会ったのはドラマの打ち上げのときですから、1月半ばだと思います。
記者 その後、電話はよくかかってきたんですか?
峰岸 たまにかかってきました。ひと月かひと月半前、電話がありましたが、それが最後ですね。仕事のグチを聞いてあげたりしましたが....。
記者 電話以外では? 例えば手紙とか。
峰岸 最近、湯沢での地方ロケのときの写真が入った手紙が郵送で送られてきましたね。「楽しいロケーションでした」と書いてありました。
記者 破局のようなものがあったのですか?
峰岸 彼女は明るいけれど、わりとナイーブで、フッと考え込むところがありました。僕は兄貴のつもりだったんだけど、ひょっとして彼女には妹としてだけなく、プラスアルファの感情があったかもしれない。自分で言うのはおこがましいですが、初恋っていうのかな。
記者 彼女の気持ちを受け入れようとは思わなかったのですか?
峰岸 年齢も違うし、そんな交際ではないです。あまり(好意を)示さないように気をつけていたぐらいで。僕のことが100%原因で自殺したのか、疑問だと思います。
記者 「好きだ」と告白されたんですか?
峰岸 具体的にはなかったけど抽象的には...。
記者 今、思うことは?
峰岸 責任は感じます。責めを負うわけですから。娘が大きくなったら愛することを理解してやらなければいけないな、と思います。
岡田有希子との交際を兄と妹のような関係と例え、プラトニックなものだったと説明した峰岸徹。30分ほどの会見の間、終始涙ぐんでいた峰岸に対して、ベテランの女性芸能記者からは鋭い質問や意地悪な質問は飛ばなかった。陰のあるハンサムに女性はからきし弱いのだった。
午前3時 新宿歌舞伎町
峰岸の会見によれば、有希子と最後に会ったの1986年1月17日、六本木のパブ『ニューギャランス』で行われたドラマ『禁じられたマリコ』の打ち上げパーティーだという。
しかし、それが後にそれがウソだったことがバレる。 1月17日以降も二人が会っていたという事実が発覚したのだった。
舞台は死の18日前、3月21日、新宿の映画館『ミラノ座』。
ミラノ座では、前日の午後11時から作家・筒井康隆原作の映画『スタア』の試写会を兼ねた『筒井が来りて笛を吹く』というオールナイトのイベントが行われていた。『スタア』は峰岸が出演した映画で、彼は試写会の舞台挨拶に立つ出演者の一人。
そこに有希子がやって来たのだった。
イベントの最中、人目を避けるように入場した彼女は、一般席でメガネをかけ地味な服装で座っていた。峰岸をはじめとする出演者が舞台から客席にむかってサインボールを投げる光景を見終わると、午前1時過ぎ、出演者控え室あたりで彼女はウロウロしていた。
有希子が峰岸のもとへ訪れ、写真が入っているとみられる封筒を直接渡すのを目撃されている。これが峰岸が会見で言っていた「郵送で送られた」手紙だったと見られている。
イベントが終了し、試写会が始まったのが午前3時すぎ。
スクリーンを見つめる人々の中に、有希子と峰岸の姿がなかった。まるで申し合わせたかのようにミラノ座から消えていた。
新宿歌舞伎町、深夜3時すぎ。42歳の中年俳優と18歳のアイドル。
二人に何が起こったのかは想像するしかない。
この夜の峰岸はいつになくイライラし、スタッフのささいなミスにかみついたという。深夜のイベントに若い女性が訪ねてきたことに相当ナーバスになっていた。
それもとびきりの若さだ。「未成年との火遊び」に対するやましさなのか、「好意を寄せる少女の一途さ」に怖くなったのか...。
夜明けの成城学園前駅
午後11時半過ぎ、生田智子との電話を切った後、30分も経たないうちに日付けは4月8日に変わった。午前中、自殺未遂で発見されるまでの間、岡田有希子は何をしていたのか。
何かをしたはずだ。
この日、もし予定通りドラマの収録があったならば、何もせずに、部屋に届いたばかりのベッドの中にもぐりこんだかもしれない。時間はたっぷりあった。ドラマの収録が1日延期したことで、前日に続きスケジュールがオフとなった。
この時期、有希子は「夜眠れない」と不眠症を訴え、夜中の3時にスタッフと一緒に食事をすることもあったという。意中の人を思い、眠ることもままならず、身もだえていた。
「じっとしてられない」有希子は南青山のマンションを飛び出した。
向かった先はいったい....。
彼女が向かった先...。それは67歳の個人タクシー運転手の証言から見えてくる。この運転手こそ、自殺未遂前の岡田有希子を最後に目撃した人物である。
1986年4月8日、午前5時15分。
タクシー運転手は世田谷の街を流していた。ようやく空が白みはじめたころで、外は肌寒く、気温は5度にも達していない。聞こえてくるのは、鳥のさえずりと新聞配達員がポストに朝刊を投げ入れる音だけだ。まだ街は眠たげだ。
成城学園前駅の踏切を通り過ぎてすぐ、反対車線の歩道で手を上げる若い女性客がいた。
酔客を乗せるピークはとっくに過ぎている。この時間帯の利用客といえば、仕事を終えた水商売関係者、飛行機や新幹線のチケットを握った出張族がメインだ。黒いスカートをはき、手にはルイヴィトンのバッグ、こんな時間にサングラスをかけている。
〝ホステスだろう〟職業柄、運転手がそう思ったのも無理もない。女性は岡田有希子だった。
車内の時刻は午前5時20分を差していた。彼女がタクシーをとめた場所は成城6丁目。峰岸徹の自宅まで直線で約500メートル、徒歩で10分もかからない距離だ。
遺書(書き置き)には「電話もかけてくれない」「もう一度お会いしたかった」「待っていたけど、あなたは来なかった」とあった。
峰岸の所属事務所によれば「あの日、峰岸は前夜から友だちがきていたので、ずっと家にいましたが、誰も訪ねてこなかった」という。
有希子は峰岸邸に行かなかったのか。門の前にたたずみ、 窓から漏れる明かりを眺めた。
チャイムを押せば彼に会えた。押すのをためらったのだろうか。
あるいは...。再びかけた電話が彼に通じ、成城にいることを打ち明けた。その後、彼が来るのをずっと待ち続けたのだろうか。寒空の下、身を縮こませながら...。
いずれにしろ、傷心のまま、夜明けの成城をあとにした。そして、タクシーを拾った。
「八重洲口まで行ってください」と小さな声でつぶやき、サングラスを外した彼女。
目は泣きはらした後だった。服装が黒っぽかったこともあり、運転手は〝通夜の帰りかな〟〝これから新幹線に乗るのかな〟と思った。
「時間は?」
「6時ぐらいまでに着けばいいです」
声がかすれていたので、運転手は彼女にキャンディー2つをあげた。早朝なので高速道路を使う必要はなく、6時前には東京駅に着く。杉並方面に向かっていた運転手は、彼女を乗せると進路を南に変え、世田谷通りを目指した。世田谷通りを抜けて、青山通りに出るとタクシーは面白いように次々と青信号を通過していった。交通量もまばらな渋谷、赤坂の街を通過し、三宅坂のあたりで彼女は突然、口を開く。
「さっきは、どうもありがとうございました」
キャンデーのお礼をきっかけに、このタクシー運転手と有希子はわずかばかりの会話をかわしている。車中では、なぜか斉藤由貴のカセットテープが流れていた。
「この人の歌が好きなんですか?」
仕事仲間の歌を思わず耳にして、彼女は話しかけずにはいられなかった。運転手は年甲斐もなく、アイドルが好きで詳しかった。泣き顔をジリジロ見てはいけないと、さっきまで遠慮していたが、こうして見ると女性客の顔には見覚えがあった。
「あれ? あんた、今いちばん売れてる岡田有希子さんか?」
「ハイッ」この時、彼女は元気に笑ったように見えた。
有希子を乗せたタクシーは東京駅にそろそろ着こうとしていた。都庁(旧都庁・丸の内庁舎)の建物が見え、国鉄(現・JR)のガード下をくぐり抜けたときだった。
「あ、すみません。ここで降ります」
突然、彼女は降車場所を変更した。料金メーターは4千数百円を示す。彼女は財布から5千円札を差し出し、おつりを受けとる。
「ありがとうございました」タクシーを降り、旧都庁わきの工事現場をすり抜けていく有希子。
運転手は 〝こんなところで降りて危ないな〟と思いつつ、現役アイドルを乗せたことで得した気分になった。このときの時刻は、午前5時55分。彼女が降りた場所から東京駅までは徒歩で5分ほどの距離だ。
そもそも東京駅には何をしに行ったのだろう。名古屋の実家に帰ろうとしたのだろうか。一晩中泣き明かした彼女。暖かい家族のぬくもりが恋しくなったとしても不思議ではない。
しかし、彼女は新幹線には乗らずに、南青山のマンション自室に戻っている。この後すぐに戻ったのか、さらに街をさまよったのかは定かではない。
タクシーを降りた午前5時55分から、午前10時ごろに押し入れで泣いているところを発見されるまでの約4時間。この間の岡田有希子の行動はわかっていない。
何もかも疲れ果て、人生そのものに絶望し、死に場所を選んでいたのだろうか。旧都庁わきで、突然タクシーを降りたのも謎だ。8階建ての旧都庁にのぼろうとしたのだろうか....。
自殺未遂の誤算
死の前日の岡田有希子は、友人の浅見純子と映画をハシゴするなど元気そのものだった。
久しぶりの休日を満喫し、一人暮らしによって初めて持った自分だけの電話番号を浅見に教え、「今度かならず電話ちょうだいね」とまで言っている。翌日に死のうと思っている人間の行動ではないだろう。
4月8日早朝、丸の内の旧都庁付近から南青山のマンション自室に戻った後も、彼女はまだ峰岸徹と会うことをあきらめていなかったのではないか。彼に「会いたい」一心でおこした行動が自殺未遂だった可能性が高い。
ガス栓をひねったうえで、手首を2箇所切ったという事実だけを聞けば、死を覚悟していたように見える。しかし、部屋に充満していたガスは〝いくら吸い込んでも絶対死なない〟という天然ガスだったし、手首の傷は〝長さが5センチまでなく、深さも5ミリ以下〟という極めて軽いものだった。しかも、便せん2枚に失恋の痛みをつづり、それを入れた封筒に書かれていた文字は〝遺書〟でなく、〝書き置き〟だった 。死ぬことに対して〝ためらい〟が見え隠れしている。
このとき、彼女は本気じゃなかった。いづれ、ガス漏れが発覚し、警察や消防がやってくる。
命のある状態で病院に搬送される。書き置きを見た第三者が、峰岸徹に連絡する。自殺するまで追いつめてしまったと知ったら、彼は考えを改めるのではないか。
「有希子...僕が悪かった...」
〝病院のベッドで寝ている私のもとへ、愛しいあの人が駆け寄ってくる...〟
岡田有希子は見かけによらず、頑固で、情熱の人だった。中学時代に両親から芸能界入りを反対されて、その対抗処置として自分の部屋に閉じこもり、家族と口を聞かず、ハンスト作戦にうって出たのは有名な話だ。このときの彼女は、やはり「お母さんへ」と題した〝書き置き〟を残している。そこには、「一度しかない人生に後悔したくない」といった内容のことが、切実とつづられていた。
娘の熱意にほだされた母親は、芸能界入りの条件として「学内テストで学年の1番になること」「中部統一模擬試験の結果が学内で5番以内であること」「志望校に合格すること」という3つの条件を提示する。猛勉強の末、3つの条件をすべてクリアした有希子は『スター誕生』の決勝大会に出場し、見事合格した。このような粘り強さがなければ、サンミュージックの目にとまることもなかった。
言いかえれば岡田有希子は「あきらめること」が下手な人だった。
彼女は上京前に男のコと一度だけデートしただけで、デビューしてからも特定の恋人がいなかったと言われている。恋愛に関しては未熟で、失恋に対する免疫そのものがなかった。
峰岸徹という理想の中年男性に出会い、無邪気に、そして無防備に自分をさらけだした。
彼はプレイボーイである。女性遍歴が実に多彩で、それは俳優という職業を考えれば、決して責められるべきことではない。映画、ドラマ、演劇の世界では、共演した者同士が意気投合し、交際へ発展していくことなど日常茶飯事である。仕事が終われば、その仲も終わってしまう運命だ。タレントにとって、恋愛は〝芸の肥やし〟である。
それまでに峰岸と浮名を流した女優たちは、彼のおこないが〝遊び〟なのか〝本気〟なのかを皮膚感覚で悟ったはずだ。〝好きか嫌いかはっきりしない。思わせぶりで冷たい〟峰岸。それに対して有希子は一途すぎた。何が何でも彼の気をひこうとして起こしたのが、狂言的な自殺未遂だった。それは彼女が中学時代に決行したハンストに近い。
有希子にとって誤算だったのが、搬送された病院、駆けつけたプロダクション側の対応だ。
5分ほどの治療を終えた彼女は、その後、サンミュージックの専務・福田時雄氏によって四谷の事務所に連れ戻される。福田専務は『スター誕生』の決勝大会で「このコはモノになる!」と佐藤佳代という少女のスター性を見抜いた人物である。彼女を発掘したのは正解だったが、4月8日に専務がとった行動は適切でなかった。
異常な精神状態にいた有希子を緊急入院させるべきだった。彼女を診た北青山病院の医師は「入院の必要なし」と診断を下した。この医師は、救急車によって運ばれた自殺未遂患者の「中毒症状」「外傷」を診ただけである。精神科医でないので心までは治療できない。
医師と専務の間で、有希子の身を他の専門家医に委ねてみる、とか、再発を防ぐために何をすべきか、とか、そういった話し合いはなかった。
「命に別状がない」と知って、ひと安心した福田専務は、マスコミが現れる前に一刻も早く病院を立ち去ろうとした。15分という短い滞在時間がそれを物語る。彼の頭の中には、とにかく事務所に戻って〝仕切り直す〟という考えしかなかったはずだ。
あるいは、釈明会見を開いて、「自殺未遂の報道が間違いだったこと」を本人の口から証言させるという計画があったのかもしれない。いずれにも、タレントの商品価値を回復維持させることだけに頭が回り、少女の心はケアはおろそかになってしまった。
彼女は事務所に戻ることで、厳しい現実に向き合うことになる。
自分が佐藤佳代ではなく、岡田有希子だという現実。サンミュージックの社長室で、相澤社長が到着するまでの沈黙。
階下では、続々と集まってくる報道陣がたてるザワザワという音が聞こえてくる。社長からの電話はパニックを起こすきっかけだったとも言える。有希子は、自分がしてしまったことの重大さに初めて気づいた。
〝取り返しがつかないことをしてしまった...もう、死ぬしかない〟
死の連鎖
岡田有希子の死後、青少年の自殺が社会問題となった。
4月8日の事件以降、ほぼ毎日、若者がビル、校舎、マンションから死のダイビングを決行するという異常事態となっていた。おもな事件をあげてみたい。
4月11日 東京・江戸川の都営住宅11階通路から18歳と12歳の姉妹が飛び降り心中。
姉妹は両親あてに「ごめんなさい」という遺書を残した。
4月12日 東京都柏江市で、都立高校2年生の女子生徒(16歳)が、本館5階の屋上
から飛び降り、全身打撲で2日後に死亡。女子生徒は水泳部で活躍し、成
績もトップクラスだったが、「クラスがかわっていやだ」といった内容の
遺書3通を家族や友人にあてていた。
4月14日 埼玉県桶川市の小学4年生(9歳)の少女が、上尾市内の7階屋上から
飛び降りて死亡。少女は前日に家から1万円を持ち出したことを叱られ、
発作的に自殺。
4月15日 岩手県盛岡市で中学生3年生の女子生徒(14歳)がマンション11階の自宅
から飛び降りて死亡。女子生徒は4月から百日ぜきにかかり体調不良で「私
の勝手を許してください」という遺書を残していた。
神戸市須磨区の16歳の少女(無職)が、近所のマンション13階から飛び降
りて死亡。直前まで妹と一緒に会話していた少女は「岡田有希子さんみたい
になりたい」といってダイブしたという。
ファンの後追いも目立った。
4月18日 横浜市の予備校生(18歳)が首をつって自殺。予備校生は岡田有希子が自
殺した直後からふさぎごんでいたという。
4月19日 千葉県勝浦市鵜原の明神崎で20メートル下の岩場へ飛び込んだとみられる
20歳前後の男性の遺体を釣り人が発見。遺体の近くには有希子の特集記事
が載った週刊誌を入れたバッグが落ちていたという。
極めつけは5月2日、有希子の事件現場となった四谷四丁目の大木戸ビルで、彼女のブロマイドを胸にした21歳の青年が飛び降りて死亡した事件だ。
有希子の死のダイブに端を発した連鎖反応はとどまることはなかった。「飛び降り」のほか、「ガス」「首つり」「焼身」を含めると、18歳未満の自殺者は異例のペースで増え続け、事件から10数日経った時点で、すでに20人を超えていた。
1986年以前の自殺による死亡者数は、1979年の年間919人をピークに、1983年=657人、1984年=572人、1985年=557人と減少傾向にあった。それが有希子の事件があった1986年4月だけでも自殺者は80人を超え、1985年4月の倍近くの数字となった。
その手段も以前は圧倒的に「首つり」が多かったのに「飛び降り」が突出し、自殺者の低年齢化が懸念された。それまで「飛び降り」といえば、年配の人がおこなうという傾向があった。 若者の自殺方法は「ガス」「手首を切る」「睡眠薬を飲む」などが主流だった。これらの方法は、早く発見されれば助かる可能性があり、〝救われたい〟という深層心理が作用していると言われている。
自殺の方法にも時代によって〝はやりすたり〟がある。有希子の事件は「飛び降り」という自殺方法をショッキングではあるが、世の中に知らしめた。人気アイドルが選択したことにより、言い方が悪いかもしれないが、最もポピュラーな自殺方法となったのだ。
しかし、有希子が最初に選んだのは「ガス」「手首を切る」方法だ。〝救われたい〟という深層心理がその方法を選んだのかもしれない。実際、彼女は救い出された。
有希子の2度目の自殺には、ことの重大さに気づいた彼女が、パニックを起こし、発作的にダイブしてしまった事故の要素が多分にあると思う。
そもそも有希子が願っていたのは、峰岸徹との関係修復であり、ガス栓をひねり、手首を切ったのも彼を呼ぶための手段だった。
彼女は躁鬱の激しい性格で死の直前、不眠症に悩まされていた。分刻みのスケジュールに身を置き、肉体も精神もギリギリの状態にあったが、生に対する執着がなかったわけでない。
遠藤康子の事件を聞いたとき、有希子は親しい友人に「なにもねえ自殺しなくても...どうしてもその男性と別れたくないんだったら歌をあきらめればいいのに」と言っている。
そうは言ったものの、岡田有希子の中には遠藤康子というアイドルのイメージが強烈に刷り込まれていたはずだ。
9日前に起こった生々しい事件を。
漆黒のビルから羽ばたく美少女の姿を。
遠藤康子は投身自殺をはかった最初の女性タレントである。
それまで飛び降りで自殺した女性芸能人はいなかった。