第3章

 

クロスロード

 

 

 

 

『毎度おさわがせします』放映翌日

 

 

 篠原達雄(仮名)は給食を食べ終わると、体育館入り口付近に集まり、いつもの3人でつるんでいた。中学3年に進級してからというもの、昼休みはこの場所に来ることが彼の日課だった。ほとんどの生徒は、午後の授業が始まるまでの数十分の間、校庭や体育館で球技に興じた。運動嫌いの篠原は、気の合う仲間とダルそうに喋るのが好きだった。もっぱらバイクのことで盛り上がった。

 

 「先輩がCBに乗っててさ、ちょっと後ろに乗せてもらったら死んだわ」

 「RZのほうが早いだろ。2ストだし。早く免許取りてぇ」

 1月の出来事で、1か月後に迫った高校受験の話題はなかった。篠原はバイクは好きだったが、ツッパリや暴走族に憧れていたわけでない。むしろダサイと思っていた。1985年の東京においてツッパリは下火となっていて、篠原の住む小金井市でも絶滅危惧種になりつつあった。

 「あっそうだ、昨日のドラマ見たかよ」友人の加藤(仮名)が思い出したように言った。

 「見た見た。『おさわがせ、なんたらかんたら』とかいうやつだろ」その場にいたもう一人、黒沢(仮名)が話に乗ってくる。彼らが話題にしているのは昨晩から放映を開始した新ドラマ『毎度おさわがせします』のことだった。

 「あの主役のコ、可愛いかったよな。俺、ファンになっちゃったもん!」アイドル好きな加藤が照れずに言った。

 「中山美穂だよ。そう、中山美穂だった」黒沢はヒロインの名前だけはしっかり覚えていた。

 「なんかさ。そのコ、どっかで見たことがあるんだよね。年も俺らと同じくらいだし。なんか見覚えがあるんだよ」篠原が口を開いた。

 「ハァ?  なに言ってんの。知り合いなわけないだろ。それに中学生じゃねーよ。俺らより上だって。裸になってたし!」

 そう言って黒沢は篠原の腹に軽くパンチを入れた。

 

 篠原は数日間、納得いかない気分のまま過ごした。 

   どっかで見たんだよなぁ。篠原は独りごちた。確かに『毎度おさわがせします』のヒロイン・中山美穂に見覚えがあるのだ。

 あんがい、近所の人だったりして? それとも、友達のお姉さん?   まさかな。とにかく、篠原には中山という苗字の知り合いは一人もいなかった。

    そのモヤモヤは一本の電話によって解決した。

 「おいおい、聞いて驚くなよ」電話をかけてきたのは小学校時代の友人・谷垣(仮名)だった。

谷垣は篠原とは違う中学に通っていた。

 「おっ、どうした⁉」

 「ほら、例のドラマに出てる中山美穂って女、どうやら○○らしいぞ」

 「中山美穂が○○美穂って。あー、そうか。確かに○○だわ」篠原の頭の中で〝中山美穂=○○美穂〟が一致した。篠原と彼女は小学3年生から小学4年生の時のクラスメイトだった。彼女は小4の1学期に転校して行った。

 新学期になると消えていた女子生徒。それが逆に印象に残った。あいつ、大丈夫かな。元気にやってるかな。年に1、2回くらい、ふと、彼女のことを思すことがあった。

 

 背が低く、全然しゃべらない女のコだった。クラスの女子からは嫌われていた。遠足の班ぎめでは、女子は誰も彼女を同じ班に入れようとしなかった。なので、彼女は篠原のいる男子の班にやって来た。ものすごく無口な彼女が、遠足で弁当を食べている時に口を開いた。

 「篠原くんて、原田真二にちょっとだけ似てるね」

 「ええっ、誰それ」突然、話かけられて驚く篠原。

 「歌手だよ。知らないの?」

 「知らない。○○さんて、テレビとか詳しいの?」

 「うん。テレビばっか見てる」

 篠原はそんな何気ない会話を思い出した...。

 

 「中山美穂って芸名なの? あの頃は○○という名字だったよな」

 「いや、本名。お母さんが再婚して○○から中山になったらしい。板橋の中学に転校しちゃったけど、去年までM中いたって。OBのJさんの彼女だったという話だぞ」

 どこから谷垣は情報を仕入れてきたのだろう。Jさんとは小金井M中出身の有名な不良で、地元で恐れられている人物だ。篠原の中に記憶にある彼女は小学4年生のままで、Jさんと付き合うというイメージがまったくわいてこない。

 彼女は教室で一人ぼっちでいることが多かった。友達が少なかったのは、転校を繰り返していたせいもあった。篠原が通っていた小学校は、2回目の転校先であり、中山美穂は小金井市内の小学校を合計3回変えている。

 「そういえばさ」谷垣が続ける。

 「あいつが『家出した』とかいって夜、学校から連絡網がまわってきたことがあったじゃん。小3の時だったよな」

 「あった、あった。あの夜、近所をぐるぐる探しまわった」

 彼女がクラスで浮いた存在になったのも、この家出事件がきっかけの気がした。わずか8歳の少女は夜の街をさまよい、学校関係者、保護者たちを心配させた。その大人たちの困惑ぶりは子供たちにも伝わった。普段から口数が少なく、饒舌ではない彼女は、事件の顛末をクラスメイトに説明することはなかった。たとえ説明されたところで、子供たちは彼女の複雑な家庭環境を理解できる年齢に達していない。

 「お母さんは若くて美人なんだよ。18の時に私を産んだんだから」篠原はこう彼女が自慢げに言っていたことを覚えている。

   彼女の母親は、ほかの生徒の母親の誰よりも若く美しかった。髪をキレイにウェーブさせた母親は、授業参観日にはピンクのスーツで颯爽と現れた。

 「あっ、そうか!」篠原は声をあげた。

 「あいつのかあちゃんを覚えてたからだよ。ドラマを見てモヤモヤしたのは。今のあいつは、小学校のときのあいつじゅなくて、かあちゃんにそっくりだもん」

 

 

 

 

小金井で語られる中山美穂伝説         

 

 

 

 冒頭のエピソードを語ってくれた篠原と初めて合ったのは、今から10年ほど前、当時頻繁に通っていた東中野とあるスナックでだった。近所の居酒屋で働く調理師の篠原は、深夜2時に店を閉めると、ほぼ毎日どこかのスナックで飲んでいた。

 私と彼は何度か顔を合わせるうちに話をするようになった。彼は「あそこは良心的だよ」とか、「ババアばっかりでダメだ」とか、貴重なスナック情報を教えてくれた。

 お互い、年が近く、同じ東京多摩地区育ちということもあり、昔話に話を咲かせることもあった。彼が小金井出身だと知った私が「小金井っていったら中山美穂だね」と振ると、「あっ、俺、小学校が一緒だった!」と嬉しそうに答えた。篠原は中山美穂と小学3年から小学4年まで同じクラスだったという。

 以下は、ここ最近、私と篠原の間でかわされたやり取りである。

  

 

   筆者  中山美穂はドラマ『毎度おさわがせします』の不良少女を地のまま演じたって

               言われていたけど、やっぱり、小金井では有名だったの?

 篠原  俺は別の中学にいたから、中学時代の中山美穂はそんなに知らないだよね。ツ

     ッパってたんじゃないかな。派手だったって聞いたね。パーマをかけたり、髪

     を染めたり。『毎度おさわがせします』が始まった頃には板橋の中学へ転校し

     てた。表向きは、仕事が忙しくなって学校に迷惑がかかるって、引っ越してい

     ったらしいよ。

 筆者  表向きって......他に理由があるんだ?

 篠原  当時付き合っていたのが小金井M中のOBで、地元で有名なヤンキーでさ。そ

               いつの彼女を見たいと、地元の不良たちがバイクの爆音をひびかせて学校に

               来るわけ。「美穂ちゃ〜ん」とか散々叫んで、去って行くという。そういう

               のが毎日続いて、先生たちも困り果ててたらしい。「中山、頼むから...どっ

               か行ってくれ」と。彼女は芸能界があるから勉強しなくてもいいけど、他の

               生徒は高校受験で大変な時期だったからね。

 篠原  小学校の時も3回転校してたよね?

 篠原  うん。小4の1学期に転校したね。夏休みが終わって登校すると「あれ? 

               いない...そっか、転校したんだ」って。家庭環境が複雑みたいで、母親は

     ックをやってんじゃないかな。そのころは名前も中山美穂じゃなかった。

     のお父さんの名字を名乗っていた。小6のころにお母さんが再婚らしいけど、

               小学校まで旧姓だったって聞いたなぁ。中学に入って中山に改名したんだよ。

 筆者  中山美穂は中学に入ってタレント活動を始めるけど、それは知ってたの?

 篠原  噂でモデルをやってるって聞いてた。友達がコンタクト(リッキーコンタクト

               レンズ)のポスターに出てるのを見たって。俺はそれを見てないんだけど「マ

               ジで?」って感じだったけど。

 筆者      初めてテレビで中山美穂を見たときは驚いた?

   篠原      あのドラマってエロかったでしょう。やられたよね。俺らの世代のやつら、

     なびっくりしたって言うもん。主役のコ、どっかで見たことあるなぁって思

     たけど、まさかね。 小4のときの面影はないよ。あんなガラ悪くないよ。あ

     不良役とは正反対。おとなしかったよ。〝おとなしい〟とはちょっと違うな。

               そう、無口。ほとんど喋らない。友達は少なかったんじゃないの。遠足に行く

               っていうんで、仲良し同士が班を組むじゃん。女子は誰も中山美穂と組みた

     らないわけ。だから俺らの班に来た。男の中に女は彼女ひとりだけだぜ。子

     って残酷だよな。

 筆者    孤立していた、と。

 篠原  いじめなんて、多かれ少なかれ誰でも経験するじゃん。でも、彼女は家にも

               学校にも居場所がなかったという印象を受けたね。 うん、うん。孤独だった

               ね。俺もガキの頃は家が貧乏で、昨日と同じ服だねとか、家が汚いねとか、

               散々からかわれたし。子供はそういう格差を敏感に察するからさ。あとさ、

               家出騒動があった。

 筆者  小学校で家出?  それは2009年に出したエッセイに書いてあった誘拐事件の

     ことかな。

 篠原  あ、そうなんだ。学校から家に連絡網が回ってきて「美穂ちゃんが行方不明

       になったので協力して探してください」というから、俺も近所のスーパーと

               かゲーセンとか探し回ったもん。あの日、楽しみにしていたテレビを見れな

               かったって、みんな怒ってたな。

 筆者  良いイメージがない?

 篠原  いや、全然。むしろ、親近感を感じてた。小金井って新興住宅地だから、基

     本は教育熱心なサラリーマン家庭の子供たちが多いんだよね。中山美穂や俺

     のような子供は少数派。うちは親父が板金工だったけど、アル中が原因で

     味不明なことをわめきながら近所を徘徊していたから肩身が狭かったんだ。

     だから、彼女が売れたときは嬉しかったね。彼女を無視していた女子たちが

     一生かかってもできない経験もしたんだし。当分働かなくてもいいくらいの

     大金も稼いだじゃない。色んな男と付き合えたしさ。最初は岩井俊二(映

     監督)と噂になってなかったっけ? 

 筆者  いや、違う。最初はトシちゃん(田原俊彦)だよ。「美穂はオッパイがない」

     という迷言を残したという。

 篠原  あ、そうか。その次が岩井俊二だ。それから「やっと、会えたね」の辻仁成

     と結婚したんだ。でも、辻とは離婚して、一人息子の親権も放棄したんだっ

     け。俺、子供を捨てたっていうのを聞いて結構ショックだった。すぐに新し

     い男も作ったみたいだし。誰だっけ?

 筆者  渋谷慶一郎かな。電子音楽アーチストで東京大学の元非常勤講師だった人。

 篠原  聞いたこともないな、その人。ま、いいか。そうそう、それで板橋へ引越し

     ていく時に、M中のやつらに「もうすぐレコード出すのに小金井出身なんて

     カッコ悪くて言えねぇよ」って捨て台詞を吐いたらしい。小金井育ちでゴメ

     ンサナサイだけど、引っ越し先は板橋だよ。あそこは特に高級住宅地ってわ

     けじゃないだろ。笑えない、この話?

 

         

 

 

 

中山美穂をスターダムの座へと押し上げた『森のどか』役

 

 

 

   中山美穂の登場は衝撃的だった。

 私も篠原と同じように1985年1月8日に放映された『毎度おさわがせします』の初回を30年以上経った今でも鮮烈に覚えている。

 このドラマは、しょっぱなからお色気シーンで視聴者を引き込む。

 『森のどか』を演じる中山美穂が、『大沢徹』役の木村一八をベッドに誘い込む。彼女はトレーナー、ブラジャー、スカートの順で服を脱いでいく。スカートを脱ごうと、かがんだ際にはパンティから半分ハミ出た生尻が画面いっぱいに迫る。その脱衣シーンで『のどか』は背中を向けているとはいえ、ブラを外しパンツ一丁になった状態だった。

 ベッドにもぐり込んだ中山美穂は、木村一八とゴソゴソと〝コト〟をはじめた。すると部屋に入ってきた徹の母親(篠ひろ子)が二人を発見。行為をやめさせようと布団をはがす。

『のどか』の驚く顔とトップレスのバストが映し出される。

 これが、いわゆる〝中山美穂のヌード〟として語り継がれる伝説的シーンだ。

 ぱっと見はヌードであるが、コマ送りすると、彼女の乳輪部分にはニプレスが貼られていることがわかる。

 『毎度おさわがせします」にはきわどいシーンが満載だった。木村一八とラブホテルに入った美穂が、下着姿で回転ベッドではしゃぎまわるシークエンスも語り草だ。

 ラブホテルの場面で美穂はシャワーを浴びる。上半身裸になった彼女をカメラは斜め後ろから捉える。スベスベの背中、うなじ、水滴がしたたり落ちる。脇にあたりに近づくと乳房のふくらみまでをも映し出す。この場面もコマ送りすると、バストに貼られたニプレスが見える。まるで液体石鹸のCMのような光景。厳密に言えばセミヌードなのだが、ベッドシーン同様、このシャワーシーンも〝中山美穂のヌード〟と視聴者に記憶されたはずだ。

 『毎度おさわがせします』は「初体験モノ」と呼ばれるジャンルのコメディドラマだ。特に中山美穂が演じたヒロイン『森のどか』は強烈なキャラクターだった。「うるせぇ」と何かと大人に反抗的な態度をとる不良少女。エッチなことに好奇心旺盛で、木村一八演じる『徹』と体験しようと、彼女のほうから積極的に色じかけをする。二人が結ばれそうになる度にジャマが入り、ひと騒動が起こる。そうした性にまつわるドタバタ劇が『毎度おさわがせします』の軸となっていて、続いて彼女が主演をつめた『夏・体験物語』、『毎度おさわがせします パート2』でもストーリー展開は、ほぼ一緒だった。

 同シリーズの売りは中山美穂のセクシーシーンだった。当時の彼女はなんと14歳。中学3年生の少女が 、ボディダブル(他の役者による替え玉)を使わずにキワどいシーンを熱演したのである。これぞ、「体を張った演技」と言わず何と言おう。

 『森のどか』は13歳・中学1年生という設定で、この役を演じるには下着姿だけでなく、トップレスになる必要があった。役者の年齢も役柄に近ければ近いほどよい。

 プロダクションにとって、TBSの連続ドラマに、タレントをブッキングできることは非常に魅力的だ。しかし、こんな過激なドラマを立ちまわれる中学生を簡単には用意できない。また、作品の概要を聞かされたタレントも『のどか』役に二の足を踏んだことだろう。こうして、まったく無名の中山美穂にもチャンスが生まれた。

 

 

 

 

 

 

中山美穂が所属していた謎の事務所『アイズ』

   

 

 

 私は疑問に思っていたことがある。『毎度おさわがせします』が放送されていたとき、中山美穂が所属していた事務所はどこだったのか? ということだ。

   現在の彼女の事務所は『ビックアップル』である。ビックアップルが設立されたのは1986年8月。『毎度おさわがせします』の初回放送は1985年1月。ドラマの時点でビックアップルという会社は存在しない。

 だから、ドラマが始まったころの中山美穂は、モデル時代の所属事務所『ボックスコーポレーション』にまだ在籍していた、多くの人は思うだろう。

 それが違うのだ。それが違うことは〝芸能界の通説〟をひも解くことで明らかになった。

 私は「中山美穂を発掘したのは、ビックアップル創業者のY氏」という芸能界の通説に着目した。

 中山美穂は12歳の誕生日を迎えたころ(1982年春)に、原宿で遊んでいたところをスカウトされて、この世界に入った、と言われている。ビッグアップル創業者のY氏は「その時、彼女をスカウトしたのは私」という趣旨の発言をたびたびしている。

 前述したように、1982年ごろの中山美穂の所属事務所はボックスコーポレーションだ。1986年にビックアップルを立ち上げたY氏が「1982年に中山美穂をスカウトした」というのは、普通に考えてもおかしい。この発言は、Y氏がボックスコーポレーションの人間だったことを示唆している。

 

 それを裏付けるものとして私の知人で元タレントの吉川和枝さん(仮名)の証言があった。

 彼女はボックス時代の中山美穂と何回か仕事が一緒になったという。中山美穂の担当マネージャーはK氏という青年だったらしい。Y氏のこともよく覚えていた。

 「美穂ちゃんと事務所は違ったんだけど、現場がよく一緒になったよ。モデルカタログとか、撮影会の仕事とかで。Yさんはボックスの幹部だったんじゃないかな。康子ちゃんのマネージャーもKさんだったと思うよ」

   和枝さんよれば、遠藤康子に会ったことはないが、マネージャーK氏は「遠藤康子の現場も自分がつく」と語っていたらしい。

 また、彼女はY氏のことを〝中島はるみと結婚した人物〟として覚えていた。中島はるみは、1980年にボックスコーポレーションが設立したころの看板モデルである。彼女には中島めぐみという妹がいて、彼女もまたボックスに所属していた。この姉妹は、それぞれCBS・ソニーから1981年に歌手デビューしていて、同社が手がけたアイドルのパイオニア的存在だ。

 ややこしいことに、同時期には同姓同名の中島はるみというモデルがいる。この、もう一人の中島はるみはキリンレモンのCMに出たり、トーラスレコードのアイドル1号としてボックスの中島姉妹と同じく、1981年に歌手デビューした。

 話が長くなってしまったが、吉川さんの記憶では有名モデルと結婚したY氏は、CM業界ではそれなりに知られた人物だったようである。

 

 Y氏がボックスにいたという確信を持った私は、 古い登記を調べてみた。

 あった。確かに同社の役員欄にY氏の名前が記載されていた。また、登記からはY氏が1983年5月にボックスを辞職していた事実が判明した。

 中山美穂のグラビアを追っていくと、1984年3月ごろまで所属『ボックス』と記載したものが存在する。Y氏がボックスを去った後も美穂が同社にいた事実は変わりない。

 しかしである。丹念に彼女の経歴を洗っていくと新たな事実に気づいた。

 それに気づいたのは1984年8月に発売されたアイドル雑誌『キャンディジャック Vol.2』(新和出版)をめくっているときだった。同誌はモノクロページに中山美穂をフレッシュアイドルとして小さく掲載。プロフィール欄を見ると、ボックスコーポレーションではないプロダクションの名前が載っているではないか。

 そこには「東京都港区赤坂(中略)赤坂(中略)609号 (株)アイズ」と記載されていた。

 私の仮説はこうだ。『アイズ』という会社は、『ボックス』を辞めたY氏が設立した事務所で、彼は独立にあたって、中山美穂を引き抜いたのではないか? というものである。

 実際、Y氏は雑誌で次のように語っている。

   

 

    おととしだったかナ、美穂と、美穂のお母さんと3人で、食事をしたことがあって   

         ね、その時は、僕はこういった。「○○(Y氏の実名)を信じて、ついてくるか?」    

         そうすると美穂は、「ついていきます」といってくれたけど、その後、こういったん

   だよ。「私のお母さんは今まですごく苦労してきました。だから、これからは私がが   

         んばって、お母さんを幸せにしてあげたい」そういって、泣いたんですよ、美穂が。   

         お母さんはいってました。「この子が、私の前で涙を見せたのは初めて。今まで反

         抗期で手のかかる子だと思ってけど、そんな娘が泣いている。感動しました」って

         ね。私も感動して、何とかやらくちゃ、と。男として使命感を感じました。

                  

                                                                『近代映画』(近代映画社)1986年4月号

 

 

 1986年の雑誌でY氏が「おととし」と回想していることは1984年だ。美穂の所属事務所がアイズに変わった年度と一致する。このエピソードで語られた食事会とは、移籍にあたっての、Y氏、中山美穂、彼女の母親による三者会談だったと思われる。

 アイズには遠藤康子も在籍していたのではないだろうか? そんな予感がした。

   調べてみると、翌月(1984年9月)に発売された同誌(『キャンディジャック Vol.3』)で、中山美穂と遠藤康子が同じ号に起用されていることがわかった。

 これは、ひょっとして...。

 巻末の見開き2ページで、白いワンピースの水着を着てベッドに寝そべる中山美穂。

 彼女のプロフィールには前号と同じように『アイズ』とあった。

 一方、遠藤康子のグラビアを開いてみた。

 巻頭に近いグラビア4ページでピンクのレオタードを着てたたずむ彼女。

 あった。

 康子のプロフィールには、確かに「東京都港区赤坂(中略)赤坂(中略)609号 (株)モデルエージェンシー  アイズ」と書かれていた

 遠藤康子もY氏についていったのだ。

          

 

 

 

 

 

 

遠藤康子は中山美穂といっしょに『アイズ』に移籍していた

   

 

 

 中山美穂だけでなく、遠藤康子までボックスを辞めていたという事実には驚いた。中学2年生の春休み、地下鉄の中で康子に声をかけたスカウトマンは、Y氏だったという可能性も考えられる。芸能プロダクションをはじめる際、スカウトで人材を集めるという方法もあるが、既存のタレントを他のプロダクションから買い取るというケースは珍しくない。Y氏がピックアップしたのは、かつて自分がスカウトした14歳の中山美穂と15歳の遠藤康子だったのだろう。

   資本提携や業務提携などがある場合はグループ会社と見られる場合もあるし、アイズの場合、ボックスコーポレーションの系列会社だったのかは定かでない。

   というのも管轄の法務局に出向いたものの、このアイズという株式会社の商業登記は見つからなかった。担当者の話では「すべてではないが、昭和60年(1985年)以前の登記は破棄されていることが多い」という。

 だが、その後、担当者が出してきた商号確認の書類の束に『アイズ』という商号を持つが会社が1社だけ見つかった。港区以降の住所、番地等の記載はなかったが、会社設立は昭和59年(1984年)5月とあった。Y氏がボックスコーポレーションを辞めてから、ちょうど1年後に当たる。時期からみて、この会社で間違いないだろう。

 また、この会社が設立からわずか3か月後の8月には、『アイズ』から『ウェーブ』へと商号を変更していることが判明した。

 1984年8〜9月に発売された雑誌において、二人の所属が『アイズ』になっているということから、移籍は同年6〜7月ごろだと思われる。

 『毎度おさわがせします』放送時、中山美穂が所属していたプロダクションはどこだったのか?  という疑問が解けた。

 答えは『アイズ/ウェーブ』だった。

 実は同時期にリリースされた雑誌で、中山美穂と遠藤康子がボックスを辞めたことを匂わせるものがほかにもあった。

   それは、彼女たちをたびたび起用していたアイドル雑誌『DELUXEマガジン』(講談社)で、1984年10月号では、二人の水着グラビアが載っていた。グラビアは別々のページに掲載されているものの、ロケ地、カメラマン、スタッフがまったく一緒で、写真の色調から見て、同じ日、同じ場所で撮られたことは確実だ。

   プロフィールには事務所名までは記載されていないが、新事務所に移籍した二人を撮り下ろすために実現した企画であることをうかがわせる。

 その日、ロケ地の都内のプールで、水をかけあったりして、二人は仲良くはしゃいだのだろうか。

 

 

 

 

 

 

『森のどか』は遠藤康子が演じていたかもしれない

           

 

 

 それにしても、遠藤康子が『ヒラタオフィス』に移籍したのが1984年10月だから『アイズ/ウェーブ』にはわずかの間しか所属しなかったことになる。『アイズ/ウェーブ』が設立された1984年5月の時点で、康子がまだ『ボックス』にいたことは当時のインタビューからわかっている。『ボックス』から『アイズ/ウェーブ』への移籍は1984年6月〜7月ごろと見られる。そして数か月後には『ヒラタオフィス』に移籍だから、めまぐるしい展開だ。

 彼女が『アイズ/ウェーブ』を離れるきっかけ何だったのか。

 私は、康子が離れた理由は『毎度おさわがせします』のヒロイン役に中山美穂に選ばれたからだと推測する。

 1984年夏ごろといえば、ちょうど配役の選考作業がおこなわれていた時期である。設立して間もない『アイズ/ウェーブ』のタレントは中山美穂と遠藤康子の二人だけで、当然、 康子も『毎度おさわがせします』のオーディションを受けていただろう。

 幼いころから女優を目指していた彼女。チャキチャキの江戸っ子で、威勢がよく、負けん気が強い。そして同世代の誰よりもコケティッシュでセクシー。

 不良少女『森のどか』は、遠藤康子そのものだ。しかし、選ばれたのは中山美穂だった。康子はそれに耐えきれなかった。彼女は親友とは別の道を歩むことを選んだのではないか。

 もちろん、少女の自由意思で、「あそこに移りたい」と簡単にプロダクションを変えられるものでない。康子が『アイズ/ウェーブ』を離れたのは 大人たちの事情だろう。タレントが商品である以上、プロダクション間でドラスティックに売り買いされたとしてもは不思議なことではない。

 Y氏が中山美穂に社運を賭け、遠藤康子をヒラタオフィスに放出したというのが本当のところではないか。ヒラタオフィスはもともとモデルプロダクションとしてはじまり、当時、芸能部門を強化していたところだった。女優志望の康子にとって、同社に移籍できることはそう悪い話ではなかった。

 いずれにしろ、1984年の遠藤康子と中山美穂がボックスコーポレーションを辞め、アイズ(ウェーブと後に商号変更)という新興のプロダクションへ一緒に渡り歩くなど、一心同体のような存在だったことがわかった。

         

 

 

 

 

バーニング陰謀説       

 

 

 Y氏には、もっと頭を悩ます問題があったはずだ。

 中山美穂を『毎度おさわがせします』を主役の座に据えることができたが、その後は茨の道が待っている。歌手デビュー、ドラマ、映画、CM...さらにメディアに露出させ続けさせた場合、当然、既得権益を握る芸能プロダクションが黙っているわけがない。

 出る杭は打たれる。弱小プロダクションのアイドルが成功するには、老舗プロの顔色をうかがわなければならない。業務提携という形で売上の一部を納めたり、原盤権など何かしらの権利を譲渡しなければ、力を持ったプロダクションから潰されてしまう恐れがある。

 事実、Y氏は中山美穂を歌手デビューさせるためにバーニングプロダクションの傘下に入り、1986年8月にビッグアップルを立ち上げている。

 ビッグアップルの登記の役員欄には、バーニングプロダクション代表者である周防郁夫氏の名前がしっかりと記載されていた。当時のビッグアップルは、バーニングの入るマンションの2階に事務所を構えてあったので、同社がバーニングの子会社であることは周知の事実だった。 

 

 康子が自殺した直後、こんなことを指摘する事情通もいた。

 「遠藤康子を後押ししていたのは『バーニングプロ』なんです。『ヒラタオフィス』は『バーニングプロ』の勢力下にありましてね。で、『バーニング』は今、人気急上昇の中山美穂に追いつき追い越せと号令をかけ、彼女を売り出すように『ヒラタオフィス』の尻を叩いていた。そこへ出てきたのが彼女の男の問題なんです。相手というのは、A高校の同級生でミュージシャンの卵。といってもプロではありませんが、相当、深い関係だったようです。『バーニング』側はこれはいけないというわけで、〝彼女の周辺をクリーンにしろ〟と『ヒラタオフィス』に命令し、その結果が、彼女が死を選んだ日の三者会議だったというわけです」

 それに対してバーニング側はこう反論していた。

 「ウチが『ヒラタオフィス』に圧力をかけたこともないし、そんな余計なことはしません」

 ヒラタオフィスもまた、バーニングの傘下にある、と言われていた。Y氏がビッグアップル社長を退任した後、ヒラタオフィスのS社長がその座にいた時期がある。そうした人事異動があること自体、両社がただならぬ間柄であることをうかがわせる。

 そういえば、ヒラタオフィスのアイドル第1号となった工藤夕貴が、30億円をつぎ込んでも売れなかったのはバーニングに潰されたからだ、という話を知人のプロダクション関係者から聞いたことがある。また、工藤本人が、歌手時代を振り返った際に「所属事務所どうしの力関係があって嫌だった」という趣旨の発言をしたことがあった。 

 1984年、ソロのアイドルとしては史上最高額のプロモーション費用を投じた工藤夕貴。当時、私は高校1年生で、まわりでアイドルに夢中になっている友人は多かったが、「工藤夕貴が好き」と言っている友人は一人もいなかった。工藤がコケたのは、彼女の容姿やキャラクターに大衆を熱狂させる何かが足りなかったからだと思う。それに〝根回し〟のしすぎて、しかも1曲目でコケたのだから、圧力をかける必要もなかったと思うが、知人に言わせると「芸能界で成功するためにバーニングは避けては通れない問題」らしい。

 〝潰された〟という意味は、工藤夕貴でこうむった損失をバーニングが肩代わりし、それによりヒラタオフィスの利権の一部を手にすることができたということなのかもれない。

 芸能界というところは、博打の要素があって、〝根回し〟のないタレントが、予想に反してブレイクすることがある。大手プロ所属ではない菊池桃子がモモコブーム巻き起こした1984年のケース、無名モデルの中山美穂がドラマ『毎度おさわがせします』で世間をあっと言わした1985年のケースなどが、これに当たる。しかし、芸能界で〝当てる〟ことはできても、〝売れ続ける〟にはそれなりの政治力が必要となる。

 菊池桃子、中山美穂、それを仕掛けた大人たちも最初はチャレンジャーだった。だが、最終的には大手プロダクションの庇護に入ることを余儀なくされ、いつの間にかタレントや利権を奪われるといったケースは少なくない。

 

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