プロローグ

 

下町の太陽

   

 

 すぐそばを流れる隅田川からは冷たい風が吹いていた。夜8時を過ぎて、ひと気のなくなった通りを一人の少女が歩いていた。

    東京下町の問屋街。

  色とりどりの布をロットごと陳列する店、アクセサリーやレザークラフトの材料を扱う店などがずらっと並ぶ。帽子や作業服を卸値で販売する店もあった。日中はプロフェッショナルから一般人まで通りを闊歩し賑わいを見せるが、その日は日曜日ということもあり、街は静まり返っていた。

   少女はなぜ、そんな時間、そんな場所を歩いてたのか。

   そこは彼女の育った街だった。正確にいえば彼女の母親の実家がある街で、母親は実家の一階で喫茶店を経営していた。少女は学校帰りに母親の店に立ち寄り、お客と無駄話をしたり、食事をしたり、雑誌を読んだり、宿題をした。人なつっこい彼女は付近で働くサラリーマン、労働者たちに可愛がられた。

   少女はまれに見る美形だった。

 中学校に入るとモデル事務所からスカウトされた。大手家電メーカのコマーシャルでデビューした後、すぐに売れっ子モデルとなった。ファッション誌、男性誌のロケに大忙しの毎日が訪れた。

 街の人々はそんな彼女を暖かく見守っていた。顔が売れても天真爛漫さは変わらなかった。彼女が通りすぎると陽射しが照りつけるような思いがした。

   

 

 

決行日    

    

 

 その日は朝からぐずついた天候だった。

 夜半になると雨粒がポツリポツリ落ち始めた。まとわりつく髪が少女の視界を遮る。ワンレングスの髪をかきあげると、シャープな顎のラインがあらわになった。いつも身につけていたはずの18金のペンダントが首元から消えていた。

    雨足は強くなり、人々は家路へと急いだ。傘を持たない少女の上着は雨粒でどんどん黒くなる。その袖先をつまむようにして何度も顔を拭った。

 その頬はすでに涙で濡れていた。

 アーモンド型の眼窩にブラウンの瞳、泣きはらしていてもその目ぢからは強かった。商店の軒先を照らすライトが端正な顔立ちを浮かび上がせる。

   少女を見た者は男も女も必ず振り返った。最近は年頃の男たちから声をかけられることが多くなった。ただ、この時は他人を寄せつけない雰囲気を漂わせていた。

    どのぐらい歩いただろうか。すでに屋外に出てから1時間ほど経っている。

    彼女は、あるオフィスビルの前に立ち止まった。

    大通りに面した玄関は日曜日のためシャッターが降ろされていた。

  裏手にある通用口へ回った。ドアは施錠されていたので、少女は2.5メートルの高さの鉄柵をよじ登り中に入った。

    非常階段まで行くと最初の一歩を踏み出す。

  コン、コン、コン、コン。

    外に設置された非常階段の足元は暗かった。階を上がるごとに階段が揺れる振動は大きくなった。

    7階の踊り場に着いた。

  屋上に通じるドアもガッチリと鍵がかけられていた。ノブを何度も回してみたが扉は開かなかった。 少女は視線を上げた。

 ドアの横の外壁は3メートル。男でもよじ登るのは困難な高さだ。 

    すると彼女はコンクリートの壁を蹴り、体をふわりと浮き上がらせた。

   同時に両手を隙間に引っ掛け半身を潜り込ませた。壁につかまりながら足を下ろし、屋上に着地した。

   屋上は周辺のビルのイルミネーションに照らされ意外に明るかった。 風は地上よりも強く吹いている。雨はいっこうにやむ気配を見せない。

   彼女は屋上パラペッドに近づいた。高さ1.5メートルのそれに上半身を乗り出し、眼下に広がる風景を見た。

   さっきまで歩いていた問屋街は豆粒ほどになっている。通りを走る車のエンジン音とクラクションが聞こえた。

   パラペッドから体を戻すと、両耳のイヤリングを外し、持っていた財布と一緒にそっと足元に置いた。

    少女はパラペッドの上に立った。

    目を閉じる。 

    1、2秒の間は何も起こらなかったが、少女は吹いてきた風にバランスを崩した。

    彼女の体は夜の闇に吸い込まれるように落ちていった。

 

          

 

事件現場

 

 

 

    2015年某日。JR総武線某駅。

 私は、少女が飛び降りたというA社のビルへと向かった。東口を降りると北に歩いた。駅周辺は立ち飲み屋やセコハンの服を売る店などが並び、わい雑な賑わいを見せる。2〜3分も歩くと、喧騒が静まってくる。

   駅前の商店街を抜けると、アパレル関連の問屋街に出た。

   時刻は午後7時をまわったところ。半分以上の店はすでに営業を終えている。通りでは従業員が特価品の棚をかたずけ、スーツ姿の人々が駅の方向へと帰宅を急いでいる。

    歩いて10分ほどで、A社のビルは見つかった。

    事件後もA社は順調に業績を伸ばし、国内有数の製造業社となった。移転することもなく、本社の機能を継続していた。ただし、当時の建物は10年ほど前に建て替え工事が行われ、7階から8階の総ガラス張りのオフィスビルに変わっていた。

   建物の高さはゆうに30メートルはあり、見上げても肉眼では屋上付近をとらえられない。

   この高さから人間が落ちたら命が助かる見込みはないだろう。

   かつて、最上階にはテラスのような機能が備わっていたという。テラスは従業員や来客がくつろげる憩いの場所だった。

   少女はテラスよりもさらに高い屋上へ侵入した。現在はテラスはなく、垂直に切り立った壁が不幸な出来事を物語る。

 ビルの裏手に回ってみると通用口があった。事件当時のままの位置関係にあるようだ。  

 通用口は少女がよじ登り、非常階段で屋上まで駆け上がった場所である。今は分厚い金属の扉で閉められている。監視カメラが設置され、大手警備会社のシールが貼られていた。

   A社の隣のビルもまた建て替えられていた。この建物は当時は3階建てで、A社のビルとの高さの差は歴然としていたが、今は6階建てとなっていた。50坪ほどの狭い敷地内に新しく建てられた建物は狭小ビルディングといってよく、形といい鉛筆にソックリだった。

 この鉛筆ビルの前にある横断歩道の端に少女は着地した。

 花がたむけられているわけではない。どこにでもある横断歩道だった。

 そして、鉛筆ビルの隣はカラオケスナックとなっていた。

 ここは当時、少女の母親が喫茶店を経営していた場所である。

   この外壁には見覚えがあった。ひょっとして...。

 横断歩道を渡り、通りの向こう側から建物を見た。驚いたことに建物は当時のままだった。

 その建物の先には東京スカイツリーがひょっこり姿をのぞかせていた。

 30年前には見ることができなかった光景である。

 

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